★絵描きの日記

加茂谷正俊のブログです。 絵画を中心に美術やっています。 公募展出展、グループ展や個展などもします。 2010年、2014年、2018年、2022年、富山国際現代美術展に参加。

2008年09月

不思議な魔力

久し振りに、アンソロジーに収録されているビートルズのライブ音源を聴きました。
ジョンの声は鼻にかかって、ヘラヘラしているのに、説得力があるのは、どうしてでしょう。
ありきたりな話ですが、ポールのボーカルの職人芸的印象とは対照的です。
どちらが良いかは、その時の気分で変わるので、何とも言えません。
まぁ、今日はジョンという気分ですね。
ライブにおいて、声量は断然にポールの方があるのですが、ジョンはそれ以上に、独自のオーラを放っているように感じるのです。
それは、セックス・ピストルズ時代のジョン・ライドンの声も同じオーラを感じます。
エルビスやジム・モリスンもそんな感じがします。    
人の声は、不思議な魔力が宿っているのです。

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うさロック

次の作品の構想スケッチが大分出来てきました。
ギターを持った女の子の肩の上から、ぴょこんと、うさぎちゃんが飛び出てきています。
ギターを持った女の子と、うさぎちゃんで、うさぎのロック、『うさロック』と名付ました。
特に重大なメッセージ性はありませんが、『老若男女、観た人みんなが、元気になるような作品』というのがコンセプトです。
一応この構想スケッチを、私の師匠、大宮政郎先生に見て頂きましたが、構図上、女の子の頭の上の空白が大きいと指摘されました。
いやぁ私も、まだ半人前です。
大宮先生にはかないません。

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忙しかったよ

今日は何かと忙しかったです。
本当に一瞬たりとも休息を入れることも出来ませんでした。
でも、制作が進んだので、まあ良いでしょう。
01052ade.jpg今日は、空がどんより曇っています。
77c418d1.jpg私も、新しいヘアスタイルは、慣れない感じです。
会う人皆に、『髪黒くしたんですか?』と言われます。

離れ

現代社会を表現する言葉として、『〜離れ』という用語が繁用されます。
『車離れ』、『活字離れ』、『テレビ離れ』、『和食離れ』、『米離れ』、『魚離れ』、『野菜離れ』と枚挙にいとまはありません。
むしろ、離れていない物を探す方が大変です。
あまりに『〜離れ』という言葉が繁用され過ぎるので、事の実態が分かりにくくなっているのです。
真相は価値観の多様化であるのだと思います。
人間、あらゆる物事に、揃いも揃って離れて、何事にも興味がなくなることは考え難いからです。
それは、物事のニーズが減った場合に、真剣に原因を考えないから、『〜離れ』と片付けてしまうのでしょう。
多くの例で、やり玉に上がっているのがインターネットです。
車が売れないのもインターネットのせい。
テレビ離れもインターネットのせい。
活字離れもインターネットのせい。
全部インターネットのせいにされたら、IT業界はたまったものではないでしょう。
大体、インターネットの使用料と、車の値段は桁が違い過ぎて比較対象にならないと思うのですが…。
テレビ離れは、確かにYou Tubeが原因と考えられますが、作り手が苦情を恐れるあまり、テレビ番組がつまらなくなっていることは否めません。
活字離れも、インターネットは文字の文化なので、紙に印刷されていたものが、パソコンのディスプレイ上に置き換わっただけです。
何でもインターネットが原因と考えることは、そんな文化がなかった年配の人が考えそうなことです。
恐らく、あらゆる業界の若い社員は、年配の上司の考察に文句が言えないので、そんな考察がまかり通るのでしょう。
私が考えている社会現象は、価値観の多様化です。
価値観の多様化が起こると、何でも流行が作れなくなるということです。
あらゆる業界がパイの奪い合いになり、それぞれが受け取る儲けが減ってしまう現象なのです。

ボクらサラリーマン兄弟

ボクらサラリーマン兄弟。
外資系の証券会社さ。
livedoor様には、ごひいきにしてもらってまいす。
つい2年ほど前は、アメリカの貧乏人住宅景気で儲けさせていただきました。
でも、まさか貧乏人達の家の値段が、二束三文にしかならないとは思わなかったんだよねー。
ボクらうかつでした。
そんで、お金がなくなって、バンクオブアメリカさんに買ってもらおうと思ったんだけど、ボクらあまりに借金が多くてフラれちゃった。
こんなことだったら、サラリーマン兄弟でなくて、ブルックス兄弟になって、地味に洋服でも販売していたら良かったのかもね。

という文章を書こうと思っていましたが、とてもシャレにならないに状況になりそうです、リーマン・ブラザーズの経営破たん!
世界大恐慌にならなければ良いと思うのですが…。

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芸術起業論

村上隆氏の『芸術起業論』を読みました。
アート野郎としては、同意できる内容もあれば、耳が痛い話もありました。
文章は、まるで村上氏の言葉を、そのまま録音して活字に起こしたような感じがしました。
だから、文体はボヤキや呟きや文句のような印象があります。
しかし、現代の日本のアートシーンの現状をズバッと言い切っている所は、さすがです。
日本には、美術評論するインフラが揃っていないと書いてありましたが、その事実は、私も常日頃感じていたことです。
『なぜ、日本のアートシーンはしょぼいのか?』という掘り下げは、みんな薄々気付いていても、誰も言わなかったことが、しっかり書いてあります。
それは、どんな美術書や美術雑誌にも書いてない楽屋オチのような内容です。
グループ展の仲間が居酒屋で話すグチが、ついに活字になった感じがします。
また、氏が主張する作品でお金を儲けることに、やましい気持ちはないという主張は、はっきりし過ぎて痛快です。
この著書全体からは、怒りが満ちていて、アート野郎としては、村上氏に叱られているような気分になります。
でも、村上氏の言うことは、もっともなので、氏の言葉で実現可能な部分は、今後の芸術活動の参考にさせて戴こうと思っています。
村上氏の言葉を全部実践することは、もう1人村上隆が居ないと無理ですねぇ…。

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なぜアート野郎になったのか

あるアートとは縁もゆかりもない方々と、飲み屋で話していたら、『芸術活動をするということは、一般的ではない。君はなぜそんな一般的でないことをするのか?』と聞かれました。
これは、答えに窮しました。
それは、哲学的な問題だからです。
作品を制作するには、知力、体力、精神力を要するので、決して楽なことではないのです。
どちらかと言うと、制作するよりも、飲み屋で飲んだり、レストランで食事する方が好きです。
なぜ、そんな大変なことを続けるのでしょうか?
結局、色々お話するうちに、私自身の内面に、そういった要素があるからであるという結論に達しました。
確かに私は通常の人が、『分からない』と匙を投げるような、現代美術の作品を喜んで見ています。
私は16歳の時から、小難しい美術書からロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズ、エデュアルド・パオロッティなどの現代美術の作品を探し出して、心躍らされていました。
それは、誰かに教えられたのではなく、単純に自分で『良い』と思っただけです。
私が、それらの図録を見せて『これ良いよ』と勧めても、同級生達は、ぽかんとしているだけでした。
今考えると、その時点で一般的でなかったのかも知れません。
でも、そんな一般的でない、それらの作品を、『良い』と感じることは、どこでも教育を受けてません。
現代社会の日々の生活を繰り返すうちに、そうなっただけなのです。
それは、紛れもなく内面的な感覚なのです。
そんな感覚が、教育も受けてないのに、どうやって身に付いたのか私自身も聞きたい位ですね。

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写真は、富山大学芸術文化学部教授・美術評論家、伊藤順二氏の若き日の著書です。偶然、私持ってました。

iPodを買い換えました

iPodを買い換えました。
今回は、iPodクラシックです。
ラインナップ変更直前で、160Gの入手にギリギリ間に合いました。
最新型のiPodクラシックは120Gしかないですからね。
ヘッドホンが苦手(肌に触れた部分が汗ばむ所が苦手)な私の場合、アンプにつないでの使用が大半です。
外で聴くよりも、iTUNEでしか手に入らない音源やCDを探すのが面倒な時に使います。
また、同じ音源でも、アナログとCDとMP3(iPod)と全て違った趣に聴こえることも一興です。

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書き言葉と話し言葉の乖離

 文化庁が発表した平成19年度の『国語に関する世論調査』で、言葉遣いについては全体の約8割が「今の国語は乱れている」と答える一方で、「言葉は時代によって変わるから」として乱れを否定した人が、増加傾向にあると言います。
 私は意図的にBlogの文章を『私は〜しました』など、いわゆる書き言葉で記載してきましたが、Blogを検索すると、そんなBlogは少数派で、大体話し言葉と顔文字で構成されたBlogが大部分です。
 明治時代に言文一致運動として、今までの文語文にかわって日常語を用いて口語体に近い文章を書くことが推奨されました。しかし、もはや『口語体』は死語のようになってしまい、書き言葉と話言葉の乖離が起こるようになってしまいました。口語体が、新たな文語体になってしまったように感じます。私も『言葉は時代によって変わる』という考えです。その言語の変化の流れは、誰にも止められません。言語が明治時代から変化しない方が逆に恐ろしく感じます。
 ではなぜこのような書き言葉と話し言葉の乖離が近年顕著になってきたのでしょうか?その原因は私達の日常に隠されているように思います。

1.インターネットの普及、特に電子メールやBlogの普及
 インターネットの普及(日本ではインターネットと言うよりも携帯電話の普及になのですが)によって人々が文章を書く機会が増えたが、それによって目に見えない、声も聞こえない人間とのやり取りが増えたことです。それにより、何も躊躇せず、乱暴な日本語が使われるようになったことです。
2.対人関係の変化
 敬語を話す機会が減ったことです。今の日本人は目上の人との接触を嫌い、親しい人としか対人関係を築けなくなった結果、くだけた言葉が蔓延するようになったことです。これは親しい人に向けた電子メールやBlogの文面によって、更に増強されてきているようです。
3.教育年数の2極化
 大学全入時代に突入して大学進学率が上昇する一方、不登校や経済の2極化でなどで大学進学が困難な層が増加していることも事実です。そうなると生涯、学術的用語に触れないまま一生を送ってしまう可能性も否定できません。

 上記のように私は考察しましたが、いかがでしょうか?かくいう私も、いつもこんなに硬い文章を書いている訳ではなく、人によっては絵文字や顔文字を多用したメールを送ることもあります。日本語は尊敬語、謙譲語、丁寧語など、場面に応じて表現を変えなければならないので、ひょっとしたら、乱れて単純化した方が、言語的には扱いやすくなるのかも知れませんね。
 


新しもの好き

新しもの好きの私は、ヘアスタイルを変更しました。
ストレートパーマを当てて、カラーは漆黒の黒にしました。
普通の日本人の髪の黒ではなく、黒猫みたいな色合いの黒になりました。
フレッドペリーの真っ赤なチェックのシャツ(フレッドペリー・ローレル大阪にて購入)が映えますねぇ。
実は、この秋、チェック柄が大流行の兆しなんですよ。


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ついでに作品もチェック柄にしてみました。

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『シャキーンとした猫』
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