★絵描きの日記

加茂谷正俊のブログです。 絵画を中心に美術やっています。 公募展出展、グループ展や個展などもします。 2010年、2014年、2018富山国際現代美術展に参加。

芸術論

コンテンポラリー・アートとダイバーシティ

★星のプリンセス

アメリカ大統領選を前に、アメリカが荒れています。
言わば保守層と、ダイバーシティ(多様性)を認める層の対立となっています。
アメリカは日本人が思う以上に、ダイバーシティを否定する、保守的な国なのかも知れません。

日本人が憧れるアメリカとは、ニューヨークやロサンゼルスのような大都市の、先進的な考えを持った一部の人々を指すのだと思います。

アメリカは国土が広いので、国内の移動をするだけで、海外旅行をするようなものです。
何しろ、アメリカ国内だけで4つの時差がある程です。

アメリカは国内が広いので、田舎に住んでしまいますと、大都会に移動すること自体が、海外旅行のレベルです。
対する日本の場合は、田舎に住んでいましても、簡単に政令指定都市に行ける環境です。

コンテンポラリー・アート(現代美術)は、ニューヨークが本場です。
コンテンポラリー・アートは、ダイバーシティの考えがないと理解不能だと思います。
アメリカ人でも、コンテンポラリー・アートを理解している層が人口の何パーセント居るのでしょうか?

日本でも、あいちトリエンナーレの『表現の不自由展』が槍玉に上がりました。
このままでは、日本はアメリカの轍を踏んでしまうかも知れません。
なぜ、ダイバーシティが否定されるのか、私には、さっぱり分かりません。

個人的には、日本は表現の自由とダイバーシティが認められている国だと思います。
なぜ、表現の自由とダイバーシティが否定されるのでしょうか?

自分の発想が独創的らしいと、今さらながら気付く

Vigorous Cat

私は人と話ますと、その発想が独創的らしいです。
私は基本的に保守的な人間ですが、創造的なことに関しましては、人を驚かせる発想をすることに、今さらながら気付かされました。

本当に、今さらながらです。
自分では、独創的なんて全く思っていませんでしたからね。

普段、プライベートで何気ない会話をしていますと、『これは○○しようかと思う』と言いますと、驚く方が多々います。
もちろん、法的にも常識的にも、何も問題ないことなのですが、聞いている方は度肝を抜かれるようです。

時に、『不思議な人』に見られることがある私です。
ベースが保守的な人間だからこそ、独創的な発想をしても、笑い話で済ませられる内容なのだと、自分では思っています。

その発想は、マルセル・デュシャンに始まる現代美術の理論や、パンク・ロックのアナーキーな世界観から、多大なる影響を受けています。


美術の人

先日8日、ギャラリー周りをしてみて、自分自身が『美術の人』なのだと、改めて思いました。
一般に、全く美術に興味がない人が、ギャラリーを何軒も梯子することは、まずないでしょう。
また、私は鑑賞だけでなく、実際に制作をする制作者でもあります。
評論家気取りの鑑賞者とは、違った視点で作品を観賞できるのです。

時々、美術館で作品を観賞していると、作品についての会話が耳に入りますが、結構間違ったことを、さも知っているかのように解説している方に出くわします。
それを聞いていると、『違う!それは違うんですよ!』と言いたくなりますが、妙な人だと思われるので、ぐっとこらえて我慢します。

作品について、色々知りたければ、自分自身で一度制作してみれば良いと思います。
そうすれば、“知識”としてではなく、“体が覚えて”いて、展示されている作品の良さが、様々に分かると思います。

真夏の思い出(ドローイング)

人間アーティスト論

アーティストは作品だけでなく、その生活スタイル、ファッション、聴いている音楽が、そしてその仕草ひとつでも、全てアーティストなのです。
それが現代のアーティストのあるべき姿なのかも知れません。
じゃじゃ〜ん

幾何学的な構造物

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車で信号待ち中、また幾何学的な構造物を発見しました。
この光景も、前を走っているバンも含め、モンドリアンの抽象画のようです。
美術のヒントは日常生活で目に映る光景にあります。

朝日新聞の『〈文化変調〉第5部・ゆらぐ権威(3)巨匠去り、失った頂点』という記事を読みました。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201012040156.html
巨匠の不在を嘆いていますが、いつの時代も世代交代は必然のものなので、ある程度は仕方ないと私は考えています。
記事では、『専門家の評価より一般ファンの声が、幅を利かせ始めている』という見解はまさに、現代の美術の本質を捉えていると思います。
美術評論家の宝木範義さんが『画壇にかわってデザインの世界が中心軸になりうる』とコメントしたのですが、私も全くもって同じように感じています。

今の日本は政治の状況を見て分かる通り、“ポピュリズム”の時代です。
大衆に支持されなければ厳しいのです。
そうなると、巨匠や作家、評論家のような専門家に高い評価を受けるより大衆に受ける作品の方が幅を利かせると思います。
そうなると、商業美術的なデザインの方向に流れるのは自然な現象です。
専門家の評価より、女子高生の間でブームになる方が、現代では大きなムーブメントになると感じています。
10年前だったら、浜崎あゆみさん、現代だったら西野カナさんが大衆から支持されるのは、そういった状況にあると思います。

色んな直線

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車を運転していて信号待ちしました。
そして、その時パチリと撮ったのがこの一枚です。
何か色んな直線が交差していてモンドリアンの絵画を想像してしまいます。
現代美術は、やはり普段目にしている光景が出発点だったのだと納得しました。

何をしても良いと言われたら…

よく私は、『絵が描けることが羨ましい』と言われます。
私は長い間、制作活動をし過ぎて、絵画を制作することに関しては、かなり日常的な動作になってしまってます。
言うなれば、絵画の制作は、箸を持つような日常になってしまっています。
ヨーロッパの方から、『箸を上手に使えて羨ましいね』と言われても、日本人はあまり嬉しくないですよね。
それと同じ感覚です。
朝から晩まで飲まず食わずでドローイングした日々。
服がペンキ屋のようにドロドロとなる日々。
スランプに陥り、制作に恐怖を感じるようになった日々。
そして、制作のし過ぎで体調が悪くなる時もありました。
絵画を制作出来るからと言って、特に羨ましいとことはないのです。
絵画を制作するということは、悩みがひとつ増えるだけです。
ではなぜ制作するのかと言いますと、頭の中で様々なクレイジーなアイデアが沸き起こるからです。
芸術というフィルターを通すと、どんなアナーキーな行為をしても誰にも迷惑をかけないで済みます。
むしろ芸術という分野では、凡庸が嫌われますからね。
人は、いざ『何んでもどんな風に表現してもいいよ』と言われたら、出来ないものですよ。
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表現者として…

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6月30日から、韓国ソウルで第32回国際展受賞作家国際HMA展が開催されます。
私は日本に居ますが…。
富山国際現代美術展で感じたことですが、アートに言語は要りません。
アートというツールを通して、世界中の人と非言語的コミュニケーションできることは有意義なことです。
アートだけでなく、音楽やダンスも非言語的コミュニケーションですね。
それが、表現者としての醍醐味だと思います。

時代の変化に応じて作風を変えていくのも、表現者としての努めだと思います。
私の作風も大分変わってきました。
私自身も変化しているし、時代も変わっていますからね。
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日本人の描く絵が…

日本人が描く絵が、どんどん漫画っぽくなっていると思います。
私の作風も、そんな世相に引っ張られて、漫画っぽくなっています。
私の場合は意識的ではなく、無意識のうちにそうなっています。
私は漫画やアニメの類いが苦手なのですが、柔軟に考えると、それが世の中の流れだから仕方ないと思っています。
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コミック雑誌なんかいらない

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富山国際現代美術展のシンポジウムで、フランス人の作家が、フランスの美術大学では学生が、グラフィックアートやマンガに流れていってファインアートをやる人が少なくなっていると言ってました。
少なくともマンガを描ける日本人の素質を、外国人は羨ましがっているように見えます。
でも、日本の美術界はマンガをアートとしては認めない風潮があります。
私は個人的にはマンガ、もしくはマンガ的表現をアートとして認めて良いと考えています。
実は私、マンガやアニメ、ゲームなど、いかにも日本的なサブカルが苦手で、コミックなどは一冊も持っていません。
そんな私でもマンガ的表現を芸術として認めても良いと思っているのです。
まあ、マンガ家の方も『芸術家なんてまっぴらだ。サブカルだから良いんだ』と考えている方も居るので、難しいですが…。
ちなみに、私の作品がマンガっぽいという声がありますが、描いているうちに、いつの間にか、そうなっただけです。
だって、私はコミックを一冊も持ってない人ですからね。
気まぐれギャラリー
『シャキーンとした猫』
2019年

ギャラリー用
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