★絵描きの日記

加茂谷正俊のブログです。 絵画を中心に美術やっています。 公募展出展、グループ展や個展などもします。 2010年、2014年、2018年、2022年、富山国際現代美術展に参加。

フランス

DOLL

会場には、ブライス人形の他にも人形の絵が展示されています。

それが、この『なまいきdoll』と、『おすましdoll』です。
実はどちらとも、フランス人形なんですよ。

『なまいきdoll』ですが、本当はこの人形の髪の色は金髪でしたが、私のひらめきで、こんな色にしました。また、制作していくうちに、人形の顔が、生意気な表情になってきたので、『なまいきdoll』と名付けました。    

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『おすましdoll』は、この色彩を見て驚かれると思いますが、100%、日本画の画材を使用しています。
おおざっぱに分けると、蛍光色の髪の毛は、泥絵具という画材で、白い肌は胡粉(貝を潰した白い顔料)が使われています。
洋服の部分は雲母という岩絵具が使用されています。
顔の雰囲気にぎょっとすると思いますが、元から人形なので悪しからず。
“おすましdoll”という題名は、表情がどこか、すました感じの人形だからです。
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これらの作品は、人形をモチーフにしたことと、知る人ぞ知るパンク系音楽雑誌、DOLLと掛け合わせて名付けました。

コールドプレイとドラクロワと自由と

VIVA LA VIDA

コールドプレイは、ラウドなバンドでないため、あまり好きなバンドではありませんが、新しいアルバム“VIVA LA VIDA”(邦題:美しき生命)が売れているというので、聴いてみました。

MTVでも、このアルバムからシングル、“Violet Hill”がヘビーローテで流れている事も、私がこのアルバムに引き込まれるきっかけになりました。
ブライアン・イーノがプロデュースを手がけている事も気になりました。

“VIVA LA VIDA”には、ドラクロワの、『民衆を導く自由の女神』がジャケットに使用されています。そのおかげで、すっかりこのドラクロワの作品が有名になりました。
ドラクロワは18世紀前半のフランスで活躍した、ロマン主義の画家です。
どこがロマン主義かと言いますと、『民衆を導く自由の女神』を見て分かる通り、映画の一場面のような、ドラマチックな画面から、そう言われます。

自由の女神と銃を持つ男達の下には、画面一杯に折り重なった人が見えます。
絵画をやっている人間から言わせると、モデルを大量に雇って、多額の経費がかかっているように見えます。

この絵が描かれたのは、まさにフランス7月革命の年、1830年です。
王政復古して、革命以前の時代に戻ったフランスに、市民達が立ち上がった瞬間です。
やはり、『自由』に関してフランス人の考え方は進んでいます。

日本 では、1830年といったら、天保の改革の頃で、幕府はこの改革に、ほとんど失敗してしまいます。
天保の改革が、幕府主導の改革なので、市民主導のフランスの7月革命とは雲泥の差です。
その差は現代でも埋められてないと思います。日本は歴史上、市民達で自由を勝ち取った事がないので、自由の真の意味を分かってないのです。

現代の日本人が権利ばかり主張して、義務を果たさない人が増えているのも、その現象です。
権利には、義務という相反する要素を満たして成立するものです。
それを勘違いして、権利ばかり主張する風潮が近頃見られます。
それでは、秩序が乱れるだけで自由とは言えません。

コールドプレイの“VIVA LA VIDA”を聴いて、改めて『自由』の意味を考える事も良い機会だと思います。

※この記事は投稿当時の原文を損なわない程度に、2017年1月3日に修正致しました。

Viva La Vida
COLDPLAY
PLG
2008-07-21

エミール・ガレ

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神戸異人館、仏蘭西館にあったエミール・ガレのツボです。
これは第一級の美術品ですね。ため息が出そうです。

エミール・ガレは19世紀末に登場した、アール・ヌーヴォーの意匠を凝らしたガラス工芸品で知られた作家です。
アール・ヌーヴォーは、細長い蔦状の線のような表現を特徴とします。
それは、同じく線で表現する日本美術に大きな影響を受けています。

このツボは、水墨画のように描かれた木に、日本美術の影響が、窺われます。

フランス・ギャル〜その2〜ミッシェル・ベルジェと共に

France Gall

押しも押されぬアイドル歌手となったフランス・ギャルに変化が訪れたのは60年代末からです。
フランスでの、アイドル歌手のブームそのものが過ぎ去ってしまいます。
YouTubeの映像も1969年頃からアイドル時代の映像が途絶えていきます。
レコード会社から契約を切られたからです。

'70年代初めのは不遇の時代が続きました。不遇の間、恋愛も経験してすっかり大人になったフランス・ギャルに、またチャンスが訪れたのは1975年です。
この年に音楽プロデューサーのミッシェル・ベルジェのプロデュースの元で再デビューしたのです。
この再デビューでは、安定したボーカルをみせ、プロフェッショナルなシンガーと変貌しています。
もう舌ったらずなボーカルは殆んど聴かれません。



1976年にミッシェル・ベルジェと結婚し、夫の才能と彼女の歌唱力で不動の人気を得ました。夫、ミッシェル・ベルジェは70年代末にロック・ミュージカル『スターマニア』をプロデュースしますが、その初代ヒロイン役をフランス・ギャルが務めています。その後も『スターマニア』は現在まで再演され、夫の代表作となっています。その後、80年代を通してシンガーとして安定した人気を得ていました。

80年代末には40歳を過ぎていましたが、あのフランス人形のようなベビーフェイス、健在でした。
その後、15年以上にわたる安定期も夫の急死で危うくなっていきます。
殆んどの楽曲を夫に依存していたからです。

しかし、その後も気丈に歌手活動を続けますが、1997年に子供が難病で亡くなってからは公の前から去っています。
2018年1月7日、70歳で乳癌のために他界し、夫のベルジェの元へ旅たちました。

フランス・ギャルの人生を振り返ると、陰と陽の振り幅が大きいように思います。
そしてその人生で一貫しているのは、音楽に対し、父性を求めている所でしょう。
フランス・ギャルの父親は作詞家なので、夫が音楽プロデューサーである事は自然の成り行きです。
セルジュ・ゲンズブールは父親の知人でした。
言わば、“歌こそが父性の象徴”であったのでしょう。

※この記事は、2023年5月3日に投稿当時の内容を一部修正致しました。

France Gall
France Gall
Wea France
1993-06-20

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『シャキーンとした猫』
2019年

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