近頃では、日本もやっと、自民党と民主党の二大政党の時代がやって来たと言われます。
しかし、日本は昭和初期は二大政党制であったことを誰も指摘しません。
誰もその事実を語りたがらないのは『曰わく付きだから』であります。
(その曰わくは後述します)
昭和初期の二大政党は、立憲政友会(政友会)と立憲民政党(民政党)です。
政友会は、初代の内閣総理大臣である伊藤博文が結党した由緒ある政党で、平民宰相と謳われた原敬も政友会でした。
また政友会の最後の総裁代行は鳩山由紀夫 ・邦夫の兄弟の祖父である鳩山一郎でした。
一方、民政党は、右往曲折を経て、分裂した政友会と憲政会が合併して、1927年に結党されました。
ライオン宰相と言われた濱口雄幸、若槻禮次郎など、総理大臣を輩出しています。
また、小泉純一郎の祖父である小泉又次郎は民政党の幹事長でした。
また、娘婿の小泉純也(純一郎の父)も、もちろん民政党でした。
民政党は1940年まで続き、二大政党の時代は、13年続きました。
注目すべきは、日本で初めて、25歳以上の男子による普通選挙が行われたのが、1928年であることです。
その間、政友会と民政党がほぼ交互に総理大臣を輩出していくのです。
では、なぜこの二大政党制が曰く付きになったのでしょうか?
まず、この昭和初期の二大政党時代、民政党の濱口雄幸首相と政友会の犬養 毅首相が凶弾に倒れました。
これらの事件が、日本の民主主義に冷や水を浴びせたのは、疑いの余地はありません。
日本は1937年に日中戦争に突入し、一気に軍事体制になり、1940年に民政党が解党しました。
そして、政友会と合流し、一国一党体制の大政翼賛会となりました。
旧民政党の議員達は、軍部の後押しをして、大政翼賛会の党派の主流となりましたが、終戦後に旧民政党の議員達はGHQによって公職追放されました。
民政党であった小泉又次郎と小泉純也もまた、公職追放となりました。
やはりこういった事実が曰くとなり、あまり『二大政党制の時代』として語られなくなったのでしょう。
一方、戦後、鳩山一郎ら旧政友会系で翼賛政治に批判的であった議員達によって、日本自由党を結党され自由民主党に発展します。
そして、鳩山一郎は自由民主党の初代総裁に就任するのです。
小泉純也ら、公職復帰した一部の旧民政党議員は、鳩山一郎の自民党の結党に合流します。
今後、日本が二大政党制の時代になった
しかし、日本は昭和初期は二大政党制であったことを誰も指摘しません。
誰もその事実を語りたがらないのは『曰わく付きだから』であります。
(その曰わくは後述します)
昭和初期の二大政党は、立憲政友会(政友会)と立憲民政党(民政党)です。
政友会は、初代の内閣総理大臣である伊藤博文が結党した由緒ある政党で、平民宰相と謳われた原敬も政友会でした。
また政友会の最後の総裁代行は鳩山由紀夫 ・邦夫の兄弟の祖父である鳩山一郎でした。
一方、民政党は、右往曲折を経て、分裂した政友会と憲政会が合併して、1927年に結党されました。
ライオン宰相と言われた濱口雄幸、若槻禮次郎など、総理大臣を輩出しています。
また、小泉純一郎の祖父である小泉又次郎は民政党の幹事長でした。
また、娘婿の小泉純也(純一郎の父)も、もちろん民政党でした。
民政党は1940年まで続き、二大政党の時代は、13年続きました。
注目すべきは、日本で初めて、25歳以上の男子による普通選挙が行われたのが、1928年であることです。
その間、政友会と民政党がほぼ交互に総理大臣を輩出していくのです。
では、なぜこの二大政党制が曰く付きになったのでしょうか?
まず、この昭和初期の二大政党時代、民政党の濱口雄幸首相と政友会の犬養 毅首相が凶弾に倒れました。
これらの事件が、日本の民主主義に冷や水を浴びせたのは、疑いの余地はありません。
日本は1937年に日中戦争に突入し、一気に軍事体制になり、1940年に民政党が解党しました。
そして、政友会と合流し、一国一党体制の大政翼賛会となりました。
旧民政党の議員達は、軍部の後押しをして、大政翼賛会の党派の主流となりましたが、終戦後に旧民政党の議員達はGHQによって公職追放されました。
民政党であった小泉又次郎と小泉純也もまた、公職追放となりました。
やはりこういった事実が曰くとなり、あまり『二大政党制の時代』として語られなくなったのでしょう。
一方、戦後、鳩山一郎ら旧政友会系で翼賛政治に批判的であった議員達によって、日本自由党を結党され自由民主党に発展します。
そして、鳩山一郎は自由民主党の初代総裁に就任するのです。
小泉純也ら、公職復帰した一部の旧民政党議員は、鳩山一郎の自民党の結党に合流します。
今後、日本が二大政党制の時代になった